本居宣長「古今和歌集遠鏡」の本文の違いは何処から来る??!
宣長真蹟と書かれたものである。
しかし、読み始めると、活字本とは「異る」文字にでくわす。
国会図書館所蔵の物、「鈴之舎大人真蹟」と箱書きされた
(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545178?tocOpened=1)
20巻ですが、今回は内容を先に把握したいと思い「活字本」も
参考にしています。
ただ、国会図書館所蔵の「辻本九兵衛」版から
活字にしたものも較べながら読んでいる内に、
根本的な違いを発見。
活字本には
「何の木くれの木。ひとだちは志かじか。
梢のあるやうハかくなむと(やうに)。
語り(聞せ)たらむがごとし。」
最初の「(やうに)」は、別の活字本や和綴じ本
(山崎美成の「頭書 古今和歌集遠鏡」etc)にも
同様の記述が有りますが
「鈴之舎大人真蹟」の和綴じ本には
「(やうに)」は、全く書かれていません。
2番目の「(聞せ)」は「鈴之舎大人真蹟」の和綴じ本では
「志らせ」たらんがごとし。と言う記述です。
「http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545178?tocOpened=1」に
書かれている「鈴之舎大人真蹟」が正しいとすれば
今迄の流布本は本居宣長の意図と少し異なる事に成ります。
どなたか、是等の違いについてアドバイス頂けませんでしょうか?